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戦争と、貧困・抑圧・差別の構造的暴力がない社会実現のために!

No.781(2020.10.21)10.21 国際反戦デー によせて

(10月21日)は、かつて1960~80年代での“国際反戦デー” の日だ。 

見直してみたい。 

                                              

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1.概要

1966年10月21日に日本労働組合総評議会(総評)が「ベトナム反戦統一スト」を実施し、それと同時に全世界の反戦運動団体にもベトナム戦争反対を呼びかけたことに由来する[2]。ジャン・ポール・サルトルが「世界の労働組合で初めてのベトナム反戦スト」と総評を讃えた。 

1967年10月21日には、アメリカのワシントンD.C.で10万人を超えるベトナム戦争反対デモ(「ペンタゴン大行進」)がおこなわれ、日本や西ヨーロッパでも同様な示威活動が展開された。 

1968年には、「新左翼」による新宿騒乱などが発生した。翌1969年にも10.21国際反戦デー闘争が新宿などで発生した。 

ベトナム戦争安保闘争、東西冷戦などの終結後も、一部の反戦運動グループにより各種の集会が毎年開催されている。

2.経緯

・1966年10月21日 - 総評が秋期闘争の第3次統一行動として、ベトナム反戦を中心とするストライキを実施。48単産産業別単一労働組合)約211万人がスト参加。91単産308万人が職場大会に参加。総評の内外への呼びかけに国内から350人近い各界知識人の支持声明が発表され、世界労働組合連盟をはじめ世界各国の労働組合からも連帯のメッセージがよせられ、以後この日は10・21国際反戦デーとなった。 

・1968年10月21日 - 18単産、76万人がストライキ、集会に456万人。46都道府県560ヵ所で集会とデモ。新宿騒乱(反代々木系学生らが国会議事堂や六本木の防衛庁に侵入、新宿駅構内を占拠・放火。逮捕745人。うち騒乱罪適用450人、13人起訴)。 

・1969年10月21日 - 日本社会党日本共産党の条件つき一日共闘で全国600か所86万人が統一行動。中央集会には8万人。反日共産党系学生、各地でゲリラ活動、機動隊と衝突、1222人逮捕。

・1970年10月21日 - 社共一日共闘、全国785ヵ所37万2千人が集会。社・共・総評など11団体の統一実行委員会主催中央集会に10万人。「公害追放」のスローガン初登場。全国全共闘・全国反戦共催集会1万3千人。べ平連7千人。

・1971年10月21日 - 全国600か所150万人が集会。統一実行委員会主催の「中央大集会」に12万人。中核派系6300人、反中核派系6800人、革マル派3200人、ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)など市民団体4700人が別々に集会。

・1972年10月21日 - 47都道府県536ヵ所22万人。実行委主催の中央集会に10万人。新左翼各派は計1万人。

・1973年10月21日 - 18団体主催全国統一行動横田大集会5万人。三沢基地包囲など全国39都道府県214会場で集会・デモ。中核派1200人、革マル派600人など9団体4300人が都内デモ。

・1974年10月21日 - 核持ち込み糾弾・ジェラルド・R・フォード来日反対の全国統一行動。中央集会に7万人、458ヵ所230万人が集会。 

・1975年10月21日 - 第10回国際反戦デー。中央集会5万人。公明党参加とりやめ。全国523ヵ所、140万人。・1976年10月21日 - 全国349ヵ所73万人、中央集会に6万5千人。

 ・1979年10月20日 - 明治公園での中央集会に2万人。全国397ヵ所80万人。

・1980年10月20日 - 日米安保条約廃棄をかかげ、25都道府県で社・共統一集会。全実委と中実委2団体主催の中央集会に10万人参加。総評の新平和4原則をめぐり社共が対立。一日共闘も分裂寸前で維持される。

 ・1981年10月20日 - 中央集会分裂。総評などの中央集会4万人(一部の妨害で中止)。10.21中実委主催中央集会、2万8千人、23道県で統一集会。

・1982年10月21日 - 中央集会分裂、社会党系は2万8千人、共産党系は3万人。全国475ヵ所で集会、うち25道県で社・共統一集会。

 ・1983年10月21日 - 社・総評など5千人、反核と反角を掲げて中央集会。中実委主催の中央集会に2万5千人。22県で統一集会。

1984年10月21日 - 総評など横須賀中央行動に2万人、中実委など東京で3万人が集会。15県で社・共共闘。

 ・1985年10月21日 - 中央では中央実行委など6団体主催2万人。36道府県共産党系独自集会、10県で社共統一集会。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

No.780(2020.10.9)今こそ幸徳秋水の「非戦論」を

《論考》

幸徳秋水の「非戦論」を、『幸徳秋水を顕彰する会』http://www.shuusui.com/

 と、『週刊金曜日』2020.10.2(1298号)論考記事より今さらながら学んだので、要旨を抜粋します。                   

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幸徳秋水は明治4年、今の四万十市中村京町に生まれ、本名を伝次郎といった。生家は薬種業と造酒業をいとなむ旧家で、父は篤明、母は多治、4人兄弟の末っ子であった。  

・父は早く亡くなって母の手ひとつで育てられた。幼児の秋水は虚弱で、胃腸障害のため少しも太らず成長が危ぶまれた。しかし、頭はすばらしく、母の懐で乳をまさぐりながら母の胸に指で字を書いていたといわれているほどで、幼児から神童と呼ばれたほど明敏、早熟で小学校、中学校に通うかたわら、9歳の時から木戸鶴州の塾に学び、漢学の素養を見につけた。  

・少年時代より自由民権運動に関心を持ち、15歳の時「自由新聞」の読者となる。板垣退助の中村訪問に際しての小宴で、町民代表として祝辞を朗読したのが16歳、その翌年、林勇造の書生となったが、自由民権派追放にあった。その後、中江兆民の書生となり、終生恩師として仰ぎ、思想的にも人格的にも大きな影響を受けた。

・新聞記者としての秋水は文筆家としての名声を高めるとともに、種々の社会問題に接して次第に社会主義思想に傾いていった。  

・明治34年社会民主党を組織し、直ちに解散させられたが、社会主義協会に結集し活動を続けた。「二十世紀の怪物帝国主義」の論文はこの年出版、レーニン帝国主義論に先んずること15年、先駆的理論家としての驚異に値する。

日露戦争中、非戦論を唱え活発な反戦活動を唱え活発な反戦活動を続けた。

・明治38年平民新聞筆禍事件の編集者として入獄中、エンゲルスクロポトキンの論文を読んで無政府主義に関心を抱くようになった。出獄後、アメリカに渡り、オークランドロシア革命記念集会で演説を行う等、大いに活躍。ロシア革命に共鳴して、サンディカリズムの傾向を強くしていった。この間に書かれた論文で日米戦争を予言し、戦争回避を絶叫したのは名高く、洞察力は英才の一面を表したものである。

・帰国後、第2回社会党大会で直接行動論を唱え、議会政策論者とのはげしい論争がはじまり、ついに2派に分裂した。

・第2次桂内閣の成立で社会主義者取り締りの強化のため弾圧がきびしく、生活の窮迫と病弱のため運動の第1線から退く考えで、友人小泉三申の勧めにしたがって湯河原温泉に赴いて静養と著述にふけっていたが、大逆事件の検挙にあい、ついに日本裁判史上に類例のない暗黒裁判によって絞首台の霧と消された。  

・時は明治44年1月24日午前8時6分、享年44歳。 その最後は「従容として挙止些かも取乱したる様子は見えなかった」(沼波教誨師談)と言う。

 

《評価》

・いま日本のジャーナリズムは瀕死の状態に近い。ジャーナリズムの最大の使命は、権力の横暴を監視・批判することにあるはずである。旧安倍政権の下、報道は政権におもねり、忖度を繰り返してきた。まるで権力の”飼い犬”のごとき様相を強めている。

・戦後75年たった今、旧安倍政権は、”教育基本法”の改定での洗脳をもベースに、”秘密保護法”を皮切りに、解釈改憲によって”安保法制”を成立させ、「日米防衛協力のための指針ガイドライン)」を改定して、さらには、”敵基地攻撃能力の保有”までをも具体化の俎上に乗せてきた。

引き継いだ菅内閣は、安倍路線を忠実に踏襲し、むしろより強権的・狡猾的にそれらの実行に移していると言えるだろう

 

幸徳秋水)を考える

・現在がそのような状況だからこそ、権力に立ち向かった一人のジャーナリストが今、注目される価値があると思う。 幸徳秋水 その人。

・1904年の大切なフレーズが、今、郷里に碑石で残されている。

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幸徳秋水の”非戦論”は、反戦平和の原点であり、戦後、永久平和・戦争放棄”の『日本国憲法』として結実した。

幸徳秋水の非戦論は、燃えるペンで非戦論を展開した。 「戦争と道徳」「兵士を送る」「戦争の結果」「戦死者の遺族」「戦争と新聞紙」「嗚呼(ああ)増税」「列国紛争の真相」「戦時と非戦論」などの論説が続く。

・「幸徳秋水を顕彰する会」には、このように記されてもいます。        

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No.779(2020.10.4)自民党:菅内閣による<日本学術会議>への人事介入を許さない!

《背景》

日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、昭和24年(1949年)1月、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別の機関」として設立された、国の科学の骨格を導く存在です。

我が国の人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約87万人の科学者を内外に代表する機関であり、210人の会員と約2000人の連携会員によって職務が担われています。

(そのHP:http://www.scj.go.jp/ja/scj/index.html を参照)

職務は、下記の2件。

・科学に関する重要事項を審議し、その実現を図   ること。

・科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること

役割は、下記の4件。

・政府に対する政策提言

・国際的な活動

・科学者間ネットワークの構築

・科学の役割についての世論啓発

 

 また、日本学術会議は、日本の科学者(自然、人文に限らず)日本の科学者を代表する機関で、独立して職務を行うと日本学術会議で定められています。

 http://www.scj.go.jp/ja/scj/kisoku/01.pdf

 

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日本学術会議の実績と平和への貢献》

この法律では、日本学術会議は「優れた研究または業績がある研究者」

を推薦し、首相は「推薦に基づいて任命する」とされています。

 行政実務上は、「基づき」という用語が用いられている場合、法曹界では拘束力を持つと解釈されているそうです。

 日本学術会議は2017年、軍事応用できる基礎研究を念頭に「再び学術と軍事が接近しつつある」と危機感を示したうえで、「戦争を目的とする科学の研究は絶対に行わない」とした過去の声明を継承するとしています。まさしく、自民党政権にとっては煙たい存在であり続けてきたと言えます。

 

 一方現状、多くの大学機関では、予算が削減され続けていることのために、デュアルユース(軍民両用)と称して、防衛省から多額の研究資金を供与され続けているのは紛れもない事実です。

しかし、それに対して未だ数多くの大学が直接軍事研究に踏み込まないのは、戦前・戦中の反省に基づいています。かつては帝国大学の目的を「国家ノ須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ」と定めた帝国大学令により戦争に積極的に加担しました。

               

そして、度重なる思想弾圧を経て、政府批判は押しとどめられ、学徒動員で大勢の教え子たちを戦場に送り出しました。

 

《菅 自民党政権により、何がなされつつあるか》

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科学者の代表機関「日本学術会議」が推薦した新会員6人を任命しなかった問題に関し、実は2016年の補充人事の際にも、学術会議が候補として挙げ、複数人が安倍首相官邸側から事実上拒否された、という経緯があった。無論、現 菅首相官房長官として、官庁の人事介入で取り仕切っていた時期です。

 また、現 加藤勝信官房長官は10/2の記者会見で、日本学術会議会員の首相による任命権を定めた日本学術会議について、2018年に内閣府内閣法制局が協議し、「解釈を確認した」と明言している。

 この時点でも、今回の任命拒否が認められ内遠野解釈に変更した可能性がある。

 その“解釈政治”には共通して、①会議の独立性を侵害する。(これは、コロナでの専門委員会の軽視/無視にも通じる。)

②意思決定が不明決裁文書も議事録もブラックボックスで、これはファシズムの特徴でもないか?

③決定理由も示さない。従い、市民は恐怖から自由な行動を自粛・自制する方向になびきやすい。

 詰まるところ、安倍政治と、それを踏襲する菅政治により、官僚・メデイア・学者の支配がますます進む。

 いずれ、「怖いからデモやSNSの政府批判をやめよう」という空気になってゆくかもしれない。

 

 香港で起こっている状況も、まさしくそれと同質のものではないだろうか? ファシズムの再来と顕在化だ。

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《任命拒否されている一人:宇野重規・東大教授 のコメント》 

・これまでと同様、自らの学問的信念に基づいて研究活動を続ける。政治学者として、日々の政治の推移について、学問的立場から発言してゆくことに変わりはない。

・民主的社会を支える基盤は多様な言論活動にある。自分は日本の民主主義の可能性を信じることを、自らの学問的信条としている。

・その心情は今回の件によっていささかも揺るがない。

・民主的社会の最大の強みは、批判に開かれ、つねに自らを修正してゆく能力にある。その能力がこれからも鍛えられ、発展してゆくことを確信している。

                (2/2)

No,778(2020.9.15) 『戦争責任者の問題』

伊丹万作 著 『戦争責任者の問題』  より                  

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・多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。

・多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしい。民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 

・このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 

 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。

 

・少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

 

・いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 

・私は「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

 

・いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。

 

・だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 

・このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 

・我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

 

・「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。                

                                                       伊丹万作(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

 

No.777(2020.9.2)”民主主義” の歴史的教科書

《紹介》

””民主主義ってなんだ! これだ!”” この数年前の国会前などでのシュプレヒコールを思い出す。

”民主主義” を単なる政治のやり方だと思うのは間違っている。

”民主主義” の根本は、みんなの心・精神・生き方の中にある。

戦後、文部省は中高生向けに一冊の教科書を刊行した。

民主主義の真の理念と歴史、実現への道のりを、未来を託す少年少女へ希望と切望をもって書くこの書物(学習教材)は、今こそ読み返す価値のある名書だと思って読み返してみた。今では教科書副読本としては考えられないものではなかっただろうか。

 

原書は、下記の ①『民主主義』文部省著作教科書:文部省著(角川ソフィア文庫 2018.10.24発行 文庫版 461ページ 920円)

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もう一つの書物はその解説版、②『民主主義』(一九四八-五三)中学・高校 社会科教科書エッセンス復刻版(幻冬舎新書 2016.1.30発行)254ページ 800円)

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いずれも、平易には書かれているが、数度読み返してみなければ理解しえたとは言えないほどで、含蓄ある二冊の書物だと思った。

また、現在の政治に対する警鐘とも言えるものではないかとも思った。

原書の紹介文として、内田樹氏が次のように記している。

「民主主義」ーー果たしてその意味を私たちは真に理解し、実践しているだろうか。昭和23年、文部省は新憲法の施行を受けて当代の経済学者や法学者を集め、中高生向けに教科書を刊行した。

民主主義の根本精神と仕組み、歴史や各国の制度を平易に紹介しながら、戦後日本が進む未来を厳しさと希望をもって若者に説く。

普遍性と驚くべき示唆に満ちた本書はまさに読み継がれるべき名著といえる。

全文収録する初の文庫版

のあとがきにはまた、このように記されている。

民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、間違いである。民主主義の根本は、みんなの心の中にあるーー1948年~53年に中学・高校生用社会科教科書として使われた『民主主義』(注:前記)は、民主主義とは何か、選挙権の意義、多数決の功罪など幅広い内容を、当時の一流の学者陣がやさしく格調高い文章で解説。

民主主義に最も真剣に向き合った時代の日本人の熱い志に溢れ、戦後社会の大きな転機を迎えた今、ますます輝きを放つ。

この知る人ぞ知る名著から重要な部分を厳選した。中学・高校生から大人まで必読の一冊。

 

(注)①『民主主義』の目次

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                                  (以上)

 

No.776(2020.8.19)戦前に軍部を痛烈に批判した反骨の新聞記者:桐生悠々の文章

 紹介

 今日ますます、ジャーナリズムの中で、(1)自民党政権に追随して戦前回帰する部分と、(2)何とか踏ん張って懸命の努力を続けてくれている部分のせめぎあいが続けられてます。

 残念ながら、後者に分が悪い。

 そこで、過去に学ぶという点で、下記に、『東京新聞』が以前に連載した記事:「言わねばならないこと」を紹介したいと思います。

 このような、骨のある、豪傑記者が今のマスコミの中にいくらほどおられるのだろうか? おられても、埋もれさせられているのが現実。

                 

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【言わねばならないこと】

 反骨の記者・桐生悠々言いたい事と言わねばならない事と」から。

 桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)> 1873(明治6)年、金沢生まれ。明治から戦前にかけ、軍部と権力者を痛烈に批判し続けた反骨の新聞記者。東京帝国大卒。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つである新愛知新聞や、長野県の信濃毎日新聞主筆を務めるなど、複数の新聞社で活躍。信毎時代、社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」を書き、木造家屋の多い東京上空で敵機を迎え撃つ想定の陸軍演習の無意味さを批判。軍部の怒りを買い、退社に追い込まれた。晩年は愛知県で個人誌「他山の石」を刊行。「言いたい事と言わねばならない事と」はここに掲載された。41(昭和16)年に68歳で死去。 

(以下、引用文)

 人動(やや)もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。 

 私は言いたいことを言っているのではない。徒(いたずら)に言いたいことを言って、快を貪(むさぼ)っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。 

 言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤(もっと)も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。 

 しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠(よ)って、いうところの檜山事件(注1)に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。

  私が防空演習について、言わねばならないことを言ったという証拠は、海軍軍人が、これを裏書している。海軍軍人は、その当時に於(おい)てすら、地方の講演会、現に長野県の或(ある)地方の講演会に於て私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は、海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして帝都の上空に出現せしむるのは、海軍の飛行機が無力なることを示唆するものだからである。

  防空演習を非議したために、私が軍部から生活権を奪われたのは、単に、この非議ばかりが原因ではなかったろう。私は信濃毎日に於て、度々軍人を恐れざる政治家出でよと言い、また、五・一五事件及び大阪のゴーストップ事件注2)に関しても、立憲治下の国民として言わねばならないことを言ったために、重ねがさね彼等(かれら)の怒を買ったためであろう。安全第一主義で暮らす現代人には、余計なことではあるけれども、立憲治下の国民としては、私の言ったことは、言いたいことではなくて、言わねばならないことであった。そして、これがために、私は終(つい)に、私の生活権を奪われたのであった。決して愉快なこと、幸福なことではない。

  私は二・二六事件の如(ごと)き不祥事件を見ざらんとするため、予(あらかじ)め軍部に対して、また政府当局に対して国民として言わねばならないことを言って来た。私は、これがために大損害を被った。だが、結局二・二六事件を見るに至って、今や寺内陸相によって厳格なる粛軍が保障さるるに至ったのは、不幸中の幸福であった。と同時に、この私が、はかないながらも、淡いながらも、ここに消極的の愉快を感じ得るに至ったのも、私自身の一幸福である。私は決して言いたいことを言っているのではなくて、言わねばならない事を言っていたのだ。また言っているのである。

  最後に、二・二六事件以来、国民の気分、少くとも議会の空気は、その反動として如何(いか)にも明朗になって来た。そして議員も今や安んじて―なお戒厳令下にありながら―その言わねばならないことを言い得るようになった。斎藤隆夫氏の質問演説注3はその言わねばならないことを言った好適例である。だが、貴族院に於(お)ける津村氏の質問に至っては言わねばならないことの範囲を越えて、言いたいことを言ったこととなっている。相沢中佐が人を殺して任地に赴任するのを怪しからぬというまでは、言わねばならないことであるけれども、下士兵卒は忠誠だが、将校は忠誠でないというに至っては、言いたいことを言ったこととなる。

 言いたい事と、言わねばならない事とは厳に区別すべきである。

                             昭和十一年六月)

                              

(引用、おわり)

 

注1檜山事件 名古屋市の女学校の校長が校内での不倫を隠すため、事実を知った女性教師らを解雇しようとした事件

注2ゴーストップ事件 大阪市で信号無視をした陸軍兵を警察官が注意し、けんかとなり、その後、陸軍が警察に抗議し、軍部と内務省の対立に発展した事件

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注3斎藤隆夫氏の質問演説 いわゆる「粛軍演説」。軍部に綱紀粛正(粛軍)を求めると同時に、議会を軽視し、政治への介入を強める軍部を批判した

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  2・26事件

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  斎藤隆夫 粛軍演説) Youtube画像(3分)

 ☟ クリック

https://www.youtube.com/watch?v=oD1470HX95E

 

 

 

No.775(2020.7.21)アーカイブス:中国残留孤児

 

《紹介》

アーカイブス : 中国残留孤児・残留婦人の証言

             クリック       https://kikokusya.wixsite.com/kikokusya

 (HP前文 より 引用) 

このホームページから、1冊目の本が生まれました。

『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』

(津成書院)です。 単行本 – 2019/7/13

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 中国残留孤児・残留婦人等とその支援者、関係者の方々の協力を得て、200人前後の方にインタビューをさせていただきました。その中の中国残留婦人等(「中国残留邦人支援法」対象者。男性、サハリン残留邦人も含まれる。終戦時13歳以上だった方)34人のインタビューをまとめたものです。

  また、ホームページやYouTubeでは、「声を残すこと」はできますが、体系的に何が言いたくて証言を集めてきたのかが明確に伝わりません。当初は、高齢化し鬼籍に入られる方が多い中、とにかく「声を残すこと(=インタビューすること)」にだけ力を注いできましたが、インタビューに協力してくださった方々はほとんどが高齢者でインターネットにアクセスできません。お元気なうちに書籍化してお返ししたいと思うようになりました。                    

 

 彼女たちの経験が多くの方に読まれ、平和の尊さを伝えることができたら、ご自分の辛酸に満ちた不条理な人生を生き貫いてきた意義を、見出し、肯定することができるのではないかとの希望を持っています。

 

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 (追記)

 このホームページでは、中国残留孤児・残留婦人・サハリン残留邦人のこれまで歩んできた道程を、インタビュー形式で録画した生の声を公開しています。 

 残留孤児・残留婦人のこれまでの人生、悲しみや苦しみは記憶遺産として、今を生きる私たち世代が共有し、後世に伝えて行かなくてはならないと思います。彼らの語りの中から、満蒙開拓の実態も、その後の彼らを育ててくれた中国大陸の温かさ・厳しさの実態も、日本に帰国後の彼等のおかれた環境も、まずお一人お一人のライフヒストリーの語りから、一端でも知ることからはじめたい。そうして、加害の歴史・被害の歴史と向き合い、より良き未来を希求したいと思っております。

 「周辺の証言」では、元満蒙開拓青少年義勇軍、元軍人、元従軍看護婦、元挺身隊、早期帰国者、支援者、研究者など、先の戦争にまつわる人々の証言を収録いたしました。(2017.7現在165人)

  教育現場のみならず、たくさんの戦争を知らない世代の方々に、彼らがどのような人生を生きてきたのか、生きざるを得なかったのか、肉声を聞いていただきたいと思います。 

 お一人のインタビュー時間はおおよそ1時間から2時間、長い方は5時間にのぼります。 一つのビデオは最長45分で切れますが、①②、、、と、順番に聞いていただければ、お一人の語り、すべてを聞くことができます。

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『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』藤沼敏子(著) 2019.7.13津成書院 2750円

Amazon 紹介文より)

 歴史を次に継承していくには、歴史学者に任せるのではなく、市民レベルで「何があったのか」を記録し検証していかなくてはなりません。

 それには、語る人(証言者)と聞く人(私)がいて、それを本で読んでくれる人、インターネットで聞いてくれる人が必要です。時の権力者と日本の軍部、関東軍とのパワーゲームの様相を描いた満蒙開拓ではなくて、「小さな人」の声を集め、「小さな人」の声を通して満蒙開拓と先の戦争の真実に近づきたいと思います。

 あの戦争がどういうものだったのか。「小さな人」たちは、どう生きたのか、死んだのか。あの戦争を生き貫いて、今を奇跡的に生きている34人の残留婦人たちの生の声、生き様を後世に伝えるのが、本書のねらいです。

 出版社からのコメント 

著者が二十数年の歳月をかけて、200人近く取材してきた中国帰国者の生の声をホームページ「アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言」で聞くことができます。このホームページから、『中国残留婦人編』『中国残留孤児編』『WWII証言編』『歴史と援護政策編』と4冊のシリーズ本が刊行予定です。