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No.756(2020.2.11)内山 節 氏の新聞論説。“感情の危険な独り歩き”

                                       感情の危険な独り歩き

(注)内山 節

1950年生まれ。哲学者。1970年代以降、東京と群馬県の山村・上野村との二重生活をしている。現在、NPO法人・森づくりフォーラム代表理事など。 

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 以下、2020.2.9付 『東京新聞』の連載コラム:「時代を読む」のなかでの、内山 節 氏の 論説全文を熟読して受け入れ、納得するとともに、そこから自分の立ち位置と日々の行動に活かされているか、相当あやしいかも、という感想を抱かざるを得なかった。

 私はこの中で、「感情と知性」という一見心理学的な領域のように聞こえる二つの概念が、実は、日々の自分自身の判断と行動においても、整合性と矛盾の対立の申し子を生み出す源泉ともいえるという事を見つけたようにも思えた。

 とりわけ、近代社会でのバラバラな個人個人にとっては、大事な自分を評価しようとしない社会への不満の蓄積感情を土台にして、他者に対する攻撃的な感情が広がっていき、その個人の支持を得ようとする政治は、たえず敵を作り出しながら、他者に対して攻撃的でありつづける。そのことによって国民感情をあおり、それを自分たちの支持基盤として使おうとする。という、トランプ/安倍に代表される、今の世界的な政治の潮流に着目したい。

 自分にとっても不可欠なことは、その対立していそうな情報を正確に集積して分析する当然の習慣と実践、それを何らかの自分の行動に反映させるという、変哲もないことだ。 

 

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(以下、記事全文)   感情の危険な独り歩き

・物事を判断するとき、私たちは感情でするときと、知性で判断するときとがある。たとえば新型肺炎ウイルスのニュースをみて、とりあえず怖いと感じるのは感情による判断だし、さまざまな情報を集めてみると、それほどあわてる必要はないのかもしれないと思いはじめるのは、知性による判断だ。

人間たちは、感情と知性によるふたつの判断のバランスをとりながら、これまで暮らしてきたと言ってもよいだろう。 

・近代的な社会がつくられたとき、この社会は感情をそのまま表に出すのではなく、その感情を知性で再検証する態度を人々に求めた。感情のままに動くのは恥ずかしいことであり、その感情が妥当なものであるのかどうかを検証する知性を、大事にしようとしたのである。 

・だが最近では、この精査員的態度は薄れてきたように感じる。感情的な判断をそのまま発信することが、インターネット上では可能になっている。そればかりか、今日の政治の世界では、国民感情をあおりながら、自分たちへの支持を集めようとする手法が広がっている。対立する政治勢力を感情的に批判しながら、感情的多数派を形成しようとする政治が、現在では世界を席巻しているのである。 

アメリカのトランプ大統領の手法は、その代表的なものだが、日本の安倍政権も、常に敵をつくりながら、国民感情をあおってきた。このかたちはヨーロッパ諸国にも広がり、中国や韓国でも同じような政治がおこなわれている。現代世界では、近代社会がつくりだした約束事が崩壊してきたのである。私たちは、そういう時代と向きあわなくてはならなくなった。 

・だが、感情は必ずしも悪いものではない。たとえば困っている人を見かけて手をさしのべようと思うのも感情だし、いろいろなことに共感したり、関心をもつのも感情だったりする。問題は、そういう人間的な感情ではなく、ヘイトスピーチのように根拠もなく他者を攻撃する感情や、政治目的で国民感情をあおる政治がはびこっている」ことにあるといってもよい。 

・私はこういう時代をつくりだしたのも、近代社会のあり方なのだと思っている。近代社会は、バラバラな個人をつくりだした。この個人にとっては、大事なものは自分だけであり、その自分を評価しようとしない社会への不満が蓄積されていく。この感情を土台において判断するとき、他者に対する攻撃的な感情が広がっていく。とともにこの個人の支持を得ようとする政治は、たえず敵を措定(そてい)しながら、他者に対して攻撃的でありつづける。そのことによって国民感情をあおり、それを自分たちの支持基盤として使おうとするからである。 

・とすると私たちがめざすべき社会は、感情と知性のバランスが保たれ、感情が他者への温かさをつくるような社会なのであろう。そしてそれは、結び合う社会のなかで成立するものである。友人や家族のような、結び合う小さな社会のなかでは、感情はときに温かいものを生みだす。 

・今日の問題は、結び合いを失った社会、個人がバラバラになった社会がつくりだした問題なのである。そういう社会では、感情だけが独り歩きすると、ときにはそれは他者を攻撃する凶器になり、ときに政治的独裁の道具になってしまうことが、いま明らかになってきた。

                                                                                                                              (了)