司法は、政治判断を一貫して回避し、行政に従属!
「安保法制」への異議に対して、何も判断しない!
『統治行為論』
・「集団的自衛権」の行使を認める安全保障関連法は憲法違反で、平和的生存権が侵されたとして、北海道の住民412人が国を相手取り、精神的苦痛に対する1人当たり10万円の損害賠償と自衛隊出動の差し止めを求めた訴訟で、札幌地裁は今年(2019年)4月22日、原告敗訴の判決を言い渡した。
賠償請求を棄却し、差し止め請求についても、「訴えの理由がない」として、原告や証人の尋問も認めず、一刀両断に門前払いをした!。
・判決では「原告の不安は抽象的」、「自衛隊の海外派遣の蓋然(がいぜん)性はいまだ低い」と断じられた。
・しかし、この訴訟の核心は、法律そのものが違憲か否かという点にある。
・政府答弁がこれまで矛盾に満ちたものであったのに加え、次の歴史的背景もある。致命的な問題を残している「砂川判決」だ。駐留米軍に対する1959年の最高裁判例。
・この判例で、たしかに固有の自衛権を持つと明示されたが、あくまで個別的自衛権であることは、法曹界でも一致した判断である。集団的自衛権はここでは全く問題になっておらず、従って認定もされていない。
・さらにこの判例では、「一見極めて明白に違憲」ならば、行政行為を「無効」とできると踏み込んだ記述もされている。
・従い、裁判官には、「一見極めて明白に違憲」かどうかのチェックが求められて当然至極ではないだろうか? 憲法との整合性への検討と判断が全くされてもいない。
判断を回避する理屈を探し回っているだけではないか?!
司法に課されている役割の放棄そのものではないのか!!
・あと全国24の裁判所の判断が残されている。三権分立の大原則を踏まえれば、司法権こそ個人の権利侵害の訴えに真正面から向き合わなければならない。
(米国の検察と裁判所の権威が、トランプ大統領の孤立を招く部分が大であることなどに比しても、日本の司法の貧弱さ・脆弱さが際立ってはいないか?)
・判決の根底には、司法は高度の政治的判断には関わらないという、下記の事情があるのだ。すなわち、「統治行為論」と「公定力論」に根源があるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下、「安保法制違憲訴訟の会」:http://anpoiken.jp/
ほかをも参考に、
根源的に課題が残され続けている、「統治行為論」「公定力論」とについて、若干調べたことと考察を行いたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本の司法(特に最高裁、高裁)にはびこる、
行政裁判の 「統治行為論」と「公定力理論」
・高級裁判所が立法・行政の重大課題に対して判断逃避する対象は、憲法・教育・原発・労働・環境ほか、国の根幹にかかわるあらゆるジャンルに及んでいる。
・それは司法(=裁判所)が、「憲法第六章 司法」で、
第七六条【司法権・裁判所、裁判官の独立】⓷すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職務を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
第八一条【法令審査権と最高裁判所】最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を存する終審裁判所である。
という規定にかかわらず、「高度な立法・行政」の判断と執行の義務を放棄していることに他ならないということに関わっている。
(参考 : ウィキペデイアより)
統治行為論(とうちこういろん)とは、“国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論のことをいう。裁判所が法令個々の違憲審査を回避するための法技術として説明されることが多いが、理論上は必ずしも憲法問題を含むもののみを対象にするわけではない。
砂川事件上告審判決(最高裁昭和34年12月16日大法廷判決)
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」の合憲性判断について、統治行為論と自由裁量論を組み合わせた変則的な理論を展開して、司法審査の対象外とした。時の最高裁判所長官・田中耕太郎が初めて用い、“日米同盟”の憲法適否が問われる問題では、以後これが定着するようになる。
この判決が下されるに当たっては日米両国政府から最高裁に対する圧力がかかっていた事が、21世紀に入ってから明らかになった。
衆議院の解散の合憲性判断について、純粋な統治行為論を採用して、司法審査の対象外とした。統治行為論をほぼ純粋に認めた唯一の判例とされる。事件名は提訴した青森県選出の衆議院議員・苫米地義三にちなむ。
「公定力理論」という「空洞の権威」
・裁判は論理と証拠の世界であるにも関わらず、「国の行政権の優位」が極めてレトリックで語られてきた言われてもいる。
(事例)
・国側の組み立てたストーリーと論理 : 「翁長知事が仲井真前知事の処分を取り消すのは、仮にその処分が違法であったとしても「行政の継続性」(法学的には「公定力」という)を破壊するものであり、それ自体として許されない。もっと簡単に言うと、翁長知事はそもそも仲井真知事の処分を取り消すことができない。これが原則だ。にもかかわらず、どうしても取り消すという場合には、取り消さない場合の「利益」と取り消した場合の「利益」を比較考量して、取り消す方がはるかに圧倒的に国民の福祉にかなう、ということを証明しなければならない、というのである。」
・それでは、このような論理を引き出す「公定力理論」とは何か。
国側によれば、この公定力は「現在」でも学説と判例とによって支持されており、確固たるものだ。国の権力の発動である行政処分は「それ自体として権威」あるものであり、それゆえ「裁判の判決」と同じように「行政処分はそれが仮に違法であったとしても、権威あるものによって取り消されるまでは、何人もその効果を否定できない」とし、これを行政権の公定力とする理論である。
・「また、このような「公定力理論」は、もう一つの重要な柱であり、裁判所にとっては決定的な最高裁判例によっても「処分の取消によって生ずる不利益と、取消をしないことによってかかる処分に基きすでに生じた効果をそのまま維持するところの不利益を比較考量し、しかも該処分を放置することが公共の福祉の要請に照らして著しく不当であると認められるときに限り、これを取り消すことができる」(最高裁判所昭和43年11月7日)として確立している。」
・「このような学説と判例からいえば、そもそも、翁長知事の取り消し処分は認められない。仮に認められたとして、辺野古基地移設は、日本とアメリカの長年の交渉の結果であり、これを中止することは日米双方の国益を害する。辺野古移設はそもそも普天間基地の騒音被害や危険性などを解消するものである。
(統治行為) は、詳細は下記、第一六章に記載されています。
(統治行為)の論拠は、司法審査を行うことによる混乱を回避するために裁判所が自制(=制限を設ける権限の実行)すべきであるとする自制説と、高度の政治性を帯びた行為は、裁判所の審査の範囲外にあり、その当否は国会・内閣の判断に委ねられているとする内在的制約説があるとされています。
又、(統治行為)の範囲と限界については、厳しい限定がかけられなければならないのが、国民の利益を擁護するためには常識的な判断だと考えますが、(統治行為)は憲法の明文上の根拠もなく、内容も不明確で、国家機関(内閣等)の自由裁量権などで実行される危険性を秘めています。現に、沖縄県・辺野古、米軍基地、原発、教育ほか、国政の全般にわたってその自由裁量が行われているのが実態です。司法(特に高裁・最高裁)は、重大事項は判断回避を繰り返しています。
※ 一方、(公定力理論)に関しては(自分の見落としがないかぎり)詳細に記述されていません。
・第一六章 裁判所:4 司法権の限界:(三) 統治行為 (326ページ~)
「最も大きな議論のあるのは、いわゆる統治行為である。
統治行為とは、一般に、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」で、法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為を言い、アメリカでは政治問題(political question)と呼ばれる。
最高裁判所は、砂川事件判決では、安保条約のような「主権国としての我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有する」条約が違憲か否かは、内閣・国会の「高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなすことが少なくない」ので、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものである」と判示し、「一見極めて明白に違憲無効」の場合には司法審査は可能であるとしたので、純粋の統治行為論ではなく自由裁量の要素を加味した、すっきりしない立場をとった (中略)
このような統治行為を認めることは、日本国憲法のように徹底した法治主義(法の支配)を原則とする憲法の下では許されない、という考え方も有力である。
たしかに、自立権に属する行為、自由裁量に委ねられた行為を除くと、そのほかに統治行為と考えられるものはきわめて限定されてしまうであろう。しかし、日本では、多数の学説がなお、統治行為の存在そのものは是認している。問題は、それを認める論拠とその範囲である。」
★ 月刊誌 『世界』 No.880 2016.4 では、
五十嵐敬喜 論文で、(「公定力理論」は正しいか) そのポイントを下記に。
- 「公定力理論」は正しいか
「 (中略) 一〇〇年間に、第二次世界大戦をはさんで日本は変わった。しかも革命的に変わった。それでも「公定力理論」は有効・有益なのであろうか。
「公定力理論」は、ドイツ、日本とも、君主制という権力の存在が前提になっていた。その中で、法治主義に基づく行政権はそれなりに有効・有益なものであったが、戦後日本国憲法はこのような君主的立憲性を、国民を主権者とする立憲民主主義に変更した。
(中略) この観点にたって「公定力理論」を吟味してみよう。
誰でも最初に思いつくのは、権力の主体は君主ではなく国民になった、国民は支配される側ではなく支配する側なのだということであろう。したがってそこにはそもそも、行政権の国民に対する優越、あるいは行政権の権威というような観念は存在する余地がないのではないか。そして優越とか権威とかいう観念を取り払うと、そこには単純な真理が浮かび上がってくる。公定力の中心的な論点である「違法な処分ではあっても、それが取り消されるまでは有効だ」という議論は、行政には誤りがないという「無謬主義」からもたらされている。
「無謬主義」が優越とか権威と密接に結びついているのである。しかし、現憲法の下ではそれは消去されている。行政処分は権威ある判決と同じようなものではなく、国民に対する意思表示である。その意思表示によって国民はある種の受益を受け、またある種の制限を受ける。 (中略) 日本の憲法の転換は「憲法変われど、行政法変わらず」というテーゼを「憲法変われば、行政法も変わる」というように一八〇度転換させた。
「公定力理論」は終焉したのである。」
- 場違いな判例
裁判所にとって最高裁判所の判例は絶対的なものである。 「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」(憲法八一条)とされているように、その判断は強い拘束力を持つ。下級裁判所は、「時代の変化」など極端な事態を迎えなければ、最高裁判所の判例に対して逆らうことができない。(後略)
(中略) 沖縄防衛局が承認を得る場合には国として、執行停止を申請するときは「私人」として不服審査して、突如「国」から「私人」へと「変身」してしまうような今回の国側の態度こそ、行政の信頼性を疑わせているのは、県ではなくまさに「国」自身ではないのかという疑惑を生むのは当然であろう。 (中略) 今回の公有水面埋め立て事件は、のちに見るように、こういうものとは全く事件の性格が異なっている。そこでは基地を作る沖縄防衛局の利益と、基地建設によって被害を受ける海、そこで生きているジュゴン、海藻類などの命、さらには漁業権者のほか、これまで「差別」されてきた沖縄全県民の利益が考量されなければならないのである。
- 行政の変質
(中略) ある事業者に対する事業の承認には、その事業者に海を埋め立てる等の権限(利益)を与えると同時に、それらの事業によって、水没、立ち退き、権利制限さらには自然・文化・歴史等の価値が破壊されるなどの不利益が発生する、という二つの側面がある。・・・・ 近時の行政法学ではこれを二重効果論という。
(中略)
辺野古に即していえば、前処分が違法であれば翁長知事がこれを取り消すのは当然ということになろう。
このような行政の変化を見てか、近時の学説の中に
「(公定力の根拠として)かつては、行政行為には適法性が働くからであるという説明がなされた。この見解は、国家は正しい処分を行うものであるという公権力に対する信頼が背景にあり、一種の権威主義的な考え方があるといえる。
しかし、行政が行う判断が正しいという論理的必然性はなく、今日このような国家権力に対する権威主義的な考え方を維持することはできない。
現在、公定力は、過去の行政法理論の延長上に、脆弱な根拠に基づいているというような見解が出現してきたのは、根拠あることなのである。
(中略)
辺野古の代執行裁判でも、裁判所は大仰な「公定力理論」を撤回させ、公有水面の埋め立ての合法性・正当性の審査に入るべきであり、そこに入れば、裁判所は軍事基地よりもジュゴンの生存に軍配をあげざるを得なくなる。
信託の理論は、行政が国民の信頼を裏切った場合には一切を拒否してもよい、という理論である。
裁判所が万が一、公定力のような理論で国民の期待を裏切るようであれば、沖縄はそのような状態に入るであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※ 以上のような法律論説をもベースにすれば、政権が行うあらゆる分野での行為:沖縄県・辺野古、米軍基地、原発、教育ほか、国政の全般にわたっての矛盾と問題に声をあげる正当で強力な行動が、個人レベルでもできるではないかと、私は学ぶことができました。
(了)