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No.614 (2019.3.5)「みるく世(ゆ)がやゆら」(今は平和でしょうか)

No.614(2019.3.5)
「みるく世(ゆ)がやゆら」(今は平和でしょうか)
来る、6・23 によせて

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《紹介》少し先の ”6・23沖縄 慰霊の日” に寄せて。

 

 6・23。ご承知のとおりそれは、1945623日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされることにちなんで、アメリカ施政権下の琉球政府及び沖縄県が定めた記念日です。
 復帰前は、住民の祝祭日に関する立法に基づく公休日とされていましたが、1972年の本土復帰後は日本の法律が適用となり、慰霊の日はその法的根拠を失っています。
 しかし、1974年には沖縄県が条例により623日を慰霊の日として定めたことによって再び正式な休日となり、地方公共団体の役所やその設置する学校等は休日となっています。

 毎年、この日には糸満市摩文仁平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行なわれます。

 

しかし、

「みるく世(ゆ)がやゆら」(今は平和でしょうか)

見たことをなかったことにする--。戦時下、学童疎開船・対馬丸撃沈に、箝口令が敷かれたのもその一例で、戦後、住民が重い口を開き、日本兵による住民虐殺や集団死が明らかになってきています。一方で、日本軍の「勇戦敢闘」、学徒隊の「純国美談」といった話がもてはやされ、次第に軍の残虐行為や住民犠牲が見えにくくなっていくことも実情です。

 

(石原昌家 沖縄国際大学名誉教授 はある紙面に、次のように述べておられます。)

 
沖縄戦を生きのびた多くの住民は、奇跡の連続の体験を「針の穴をくぐってきた」と表現しています。しかし戦後、日本政府は住民の戦争被害の体験を、「真実」と異なる体験として記録して、現在に至っています。 

 

・例えば、激戦場で「(避難していた壕から)日本軍に追い出されて死傷した」と多くの住民がありのままの体験を証言しています。しかし、日本軍の命令により、「壕の提供」をして死んだことにすると、政府から、戦闘に協力した「戦闘参加者」として認定されます。そして、兵士同様に国のために死んだものとして、遺族に「経済的援助」として遺族年金、弔慰金などを支給し、「精神的な癒やし」として靖国神社合祀が行われました。それは軍人、軍属などを対象とした「戦傷病者戦没者等保護法」という法律を、日本政府が沖縄戦の被害住民にも適用していったことによるものでした。
  
・住民への拡大適用にあたり、政府は住民の沖縄戦体験を「弾薬輸送」「集団自決」「食料供給」などの20ケースのどれかにあてはめ、「戦闘参加者」として認定する仕組みを作りました。その結果、戦争体験の「書き換え」「捏造」を招く事態になったのです。
  
・そう遠くない将来、沖縄戦の生存者がいなくなる時が訪れるでしょう。そして住民が積極的に戦闘協力したという、膨大な公文書が残ることになります。
  

・教科書の記述をとおして、沖縄戦で住民が勇敢に戦ったと強調される今、沖縄住民が日本国民の「手本」として使われる懸念さえ現実のものになってきています。

 

そこで本題のこの著書の紹介です。
 
『決定版・写真記録 沖縄戦- 国内唯一の“戦場”から“基地の島”へ』
                    (高文研 大田昌秀 編著 2015年 1700円)
  
 編著者の大田昌秀氏は、1925沖縄県久米島に生まれ、2017年に惜しまれつつ亡くなられました。
  沖縄師範学校在学中に「鉄血勤皇師範隊」の一員として沖縄戦に参加、九死に一生を得て生還。戦後、早稲田大学を卒業後、米国シラキュース大学大学院でジャーナリズムを学ばれました。
  終了後、琉球大学社会学部教授。1990年、沖縄県知事に就任。2期8年にわたり、平和・自立・共生をモットーに県政に貢献し、その間に「平和の礎」や「新沖縄平和祈念資料館」、「沖縄県公文書館」などの創設に貢献されました。
 
2001参議院議員(1期6年)。 

知事退任後は、大田平和総合研究所をつくり、引き続き平和研究に従事されました。

 
“沖縄”に関する著書多数。その中の一つがこの本。
 
『決定版・写真記録 沖縄戦- 国内唯一の“戦場”から“基地の島”へ』 
                     (高文研 大田昌秀 編著 2015年 1700円)
 
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          (写真左上)亀甲墓の入り口で、助けを待つふたりの幼子
          (写真右上)戦場を収容所に向かう少年
          (写真左下)守備軍の陣地に造られた地下砲台
          (写真右下)洞窟に潜む守備軍兵士を、火炎放射で掃討する米軍
 
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         (写真左上)1945年8月の嘉手納飛行場
         (写真右上)置き去りにされた少女に携帯食料を与える米兵
         (写真左下)「集団自決」から奇跡的に生還した少女(渡嘉敷島
         (写真右下)砲撃のすさまじさを物語る弾痕(首里城付近)

 

《内容について》

 

 実は、読む前は、旧日本軍の非人間性がもろに強調されているのだろうかと思っていましたが、そうなのですがあくまでも冷静客観的に”沖縄戦”の実相を調査し、解りやすく理解できる良い参考書だと思います。
 
「まえがき」冒頭にはこう書かれています。

 

 「私が一日たりとも忘れることができないのは、太平洋戦争末期に身をもって体験した沖縄戦の事です。それは、私にとって戦時中から現在に至る私の人生の生き方の原点になっているからです。
 すなわち、沖縄戦の最後の決戦場たる沖縄本島南部の摩文仁(まぶに)の海中で意識を失い九死に一生を得て、海岸の岩山に敗残の身を潜めていた時、もしも生き延びることができたら、この戦争の実態や「聖戦」と称されたのとは逆に、世にもおぞましい戦争に如何にして駆り出されたのか、その経緯についてぜひとも明らかにしたいと自らの心に固く誓ったのです。
 しかしいまだ、その想いは完結していないので、忘れ去るわけにはいかないのです。」
 

 内容は、さすがに、沖縄戦の内実が殊のほか奥深く複雑多岐な上、日本・沖縄・米国三者がじかに関与した戦闘のため、可能な限り三者の資料を収集してそれをバランスよく整序・分析しないと、その全容が把握できないとの考えの下で、著者(大田昌秀氏)は、延べ20年間もアメリカの国立公文書館に通い続けて、米軍報道班の撮影した沖縄戦の写真や関連資料を可能なかぎり収集されてきたそうです。

 

 全173ページの中にそのエッセンスの写真画像が数百枚掲載されてあり、その名のとおり、(写真記録)が半分、経緯解説が半分の構成になっています。ですから、内容は重いのですが、非常に理解しやすく表現されています。

 

 しかも、調べ検証してきたことと写真記録が非常に客観的に淡々と描かれており、“沖縄戦”の実相の多くを理解できる本だと思います。

 

 是非ご一読を。
 
                   (沖縄戦 地図 (この本の裏表紙より)
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(注)掲載されている貴重な写真をここに貼り込みたいのはやまやまなれど、著作権法上の問題で残念ながら叶わず、(問題ないと勝手に判断した)書籍の表紙画像等に限ることにします。
 
                                                        (了)